去る1月14日(水)に、Groningen大学のWout van Bekkum教授をお招きして、研究会が開催されました。大勢の大学院生が参加し、盛況な研究会となりました。
【要旨】
ヘブライ大学(エルサレム、1925-)初のイスラーム研究を専門とする教員であったShelomo Dov Goitein(1900-1985)は、ゲニザー文書を頼りに、中世ユダヤ社会の研究に携わっていた人物でもある。その中でも彼は特に、中世のアラブ・ユダヤ関係を描いたゲニザー文書に興味を頂いていた。ゲニザー文書は、11-13世紀の中世イスラーム社会における、アラビア語を話すユダヤ教徒の状況について述べていた。
そして1989年、これまで隠されていたゲニザー文書が、Abraham Firkovich(1786-1874)の貢献もあり、ロシアで白日の下に晒された。Firkovichは1830年代にパレスチナ、シリア、エジプトなどを訪れ、多くのゲニザー文書を収集していた。その多くはユダヤ教カライ派に関する史料であり、Firkovichの調査の成果は、カライ派に関する昨今の歴史研究の潮流の元となった。
カライ派は、アラブ・イスラーム世界の特殊な状況の中で、長い歴史の中でユダヤ教から分かれた人々である。彼らは近年まで、ラビ・ユダヤ教の伝統と袂を分かった、ユダヤ教内の少数の教団(sect)だと理解されてきたが、その内実は様々である。例えば第二次世界大戦下の1939年、ポーランドとロシアのカライ派の人々は、ドイツ内務省に自分たちはユダヤ教徒でないことを訴えた。その訴えがナチス政府に認められことによって、当地のカライ派の人々は、ホロコーストを免れた。しかしそのことによって戦後、カライ派をナチスに協力的であった存在と見なしたソ連によって、東欧のカライ派の共同体は破壊されてしまった。
Zvi Ankoriのものを始めとする、カライ派に関する本格的な研究は、1950年代半ばから始まった。そこでは「カライ派」の概念規定の基礎として、ユダヤ教の宗教運動の中の一つ、中世ユダヤ教の宗教文化における欠かせないものの一つという理解がなされている。そして中世ユダヤ教においてヘブライ語とアラビア語の双方が用いられていたことから、カライ派の研究は、ユダヤ・アラブ研究の一部としても行なわれ始めた。
カライ派の人々は、タルムード(成文律法)やトーラー(口伝律法)を拒絶し、ヘブライ語聖書を唯一の聖典として認める立場にある。al-Maqdisiやal-Mas‘udiといったアラブ歴史研究者は、同派の祖と言われるAnan ben Davidの名に因んで、カライ派を「アナンの人々」(Ananite/Ananiyya)と呼ぶ。彼らは、自分たちの起源が第二神殿時代にあると信じ、エルサレムに多く移り住んだ。奔放な私生活からその社会的権威を低下させつつあったラビ・ユダヤ教の人々に対して、当時の彼らは、ムスリムの支援を受けながら、エルサレムでの生活基盤を安定させていったのである。
(同志社大学大学院神学研究科博士後期課程 高尾賢一郎)